蛮族の生活

蛮族です、未来を喰らいつくします

サマー不要論

 

微睡みをラムネサイダーで取っ払う君は映画を倍速で観る

 

夏風邪をガリガリ君で冷やしてる雫が垂れる、きみは要らない

 

激しめのジャズが攪拌するときに割りましたからもうさようなら

 

いつもいたところにあなたは(生きてない)紅茶はすべて腐っているのよ

 

名も知らぬ犬にくるぶし舐められる、乾いた残る、夏が嫌いだ

 

掬われた若葉のように壮絶に生まれ落ちたね朝焼けに息

 

 

(德丸 魁人 2021/6/17)

花降る夜に会いましょう

国境は遠し 花降る街に春

腐りつつ海へと潜る鯨かな

逃げていた白鳥の王抱え込む

密やかに貴女は泣いていて寒い

王国が滅んではまた百日紅

嘘を吐き煙草を少し長く吸う

華族だと名乗る女に雪積もる

魔を祓う札を抱えて祭りかな

花の名を伝えてゆるく夏の坂

花束を投げ込んでいる焚き火かな

セーラーが坂駆け降りる。白南風も

逢い引きやガーベラ2本だけ買って

弓を射て、午睡の街を揺さぶれよ

倦怠や靫蔓を撫でている

鳥の夢盗み見ている半夏生

青すぎて落ちる林檎やさようなら

「ん」の口のままで眠って少女と世界

街はもう沈んで春も大団円

美しい日暮れに殺されている心

藍色の藍に右手を沈めます

目を閉じるたびに海月が溶けていく

目を撫でている青年はまるで鱶

絞めている間だけ人五月尽

性愛の愛の部分はどこですか

もうなにも言えない冬の夜静か

猫からは猫が生まれる猫の恋

離れたら笑って泣いてくれますか

凪、凪、凪、そうかあなたは海だった

終わったら、花降る街で会いましょう

朝霧や靴紐固く絞めて出る

果てにもうさようならしかない銀河

ことと(2021 6/16 23:10花降る夜に)

賞味期限切れの生活(としての六月)です

 

滴っている六月の冷たさが

 

マッチ擦り恋文燃やす梅雨です

 

雨だしさぁコーヒー飲んで晴らそうな

 

傘もなく走る(書類を抱きしめる)

 

目的もなくカレー屋を眺めてた

 

泣いている貴女は遠い<青葉風>

 

「みんなさぁいなくなったね」百日紅

 

冷え切ったコーラを買って背伸びする

 

つまんねえ奴ばっかりの夏の夜

 

あの映画見てないけれど夏になる                               

                          byことと(2021 6/14 21:17)

 

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道草食って虫食って

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輪になった蟷螂たちが流されて最期はいっしょだ排水溝だ

 

絶対に溶けあわないものそれは俺の魂お前の魂、蛹

 

ひとりでは生息できない生体は直ちに脳を右手に植えろ

 

胡瓜から飛び立つときの踏切で生命たちが配膳される

 

鱗粉が撒かれた灰の首筋に《生まれる前は煙だったね》

 

いいだろう水槽ならばゲンゴロウ/鼓動をあげよう明日には返せ

 

紋白の斑点ぼくらは少しだけ だけどたぶん どこか死んでる

 

苦しいよ辛いよここにいられないグアム行きたい「土でも食ってろ」

 

俯けばミミズは笑う忠実なまでに生き生き生き生き、死ぬな

 

見ろ朝は羽化が輝く俺の目に命はすべて金色をする

 

じゃんけんをしましょう

じゃんけんほい,僕の勝ちです。なぜならあなたが思いついた手に勝つ手を私は出すことにきまっているからです。今決めた。それがこの空間を支配するために書くという行為をした者の特権です。てやんでぃ。

冗談は顔だけにしといて池田澄子の名句「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」について書こうとしたら意外にもというよりかは圧倒的に(これまでの句に比べ)インターネッツにその存在を知られていたので,まあ僕の出る幕はないかなって思ってます。てかこのシリーズはなんなんだよ。

ミーハーな句のチョイスをしてるのには意味があって俳句のミーハーは世間のミーハーでは特にないという事実に気がついてしまったからですね。仕方ないですね。マイノリティ。僕は好きにやる,君たちも好きにやりたまえ。

ところでこの句,何故か僕はじゃんけんに負けて…という風に覚えてしまってました。親を間違えてしまったカルガモのようにこの先入観から僕は逃れられない。じゃんけんに負けたのならなんか哀愁が漂っちゃいますよね,こう人生の裏小路,平日朝から酒を飲み鼻を赤くして武勇伝を語るおやじ,浪花節

じゃんけんで負けたっつうとなんか事務的ってか意外に前向きってか,まあしかたないよねみたいな感じがして良いですよね,わかる。決まりだから,仕方ねえわな。

冷静に考えれば蛍に「じゃんけんで負けちゃったのね」なんて話しかけているやばい絵面だし,こんなことを僕が日常でやっていたらたちまち病院送りとなるでしょう。これが詩的な世界として成立して人に受け入れられるということは意外に俳句は奇想天外摩訶不思議ワールドとして成立してるんじゃないかな,と思う訳なんですよ。

俳句というのは575季語入りなんて縛りをしている時点で大変にマゾヒスティックで変態じみているのに,その上に重ねて己を縛っていく変態が多い場所であるというのはよく知られています。文語であり花鳥諷詠であり感情語はいれないべきでありだから言っただろ…?お前を倒すのは俺だってさ!みたいな具合ですね。良い悪いの話ではないのですが,こと他の文芸に目を向けてみればここまでメインストリームで縛りプレイをしている文学って無いですからね。

季語あり575の枠内で面白いこと新しいことをする試みは俳句人口の割合の中で言えばかなり少数派のように思います。

そして俳句に関するそんな先入観を粉砕してくれるこの句は僕はとても好きな訳ですね。

これは蛍ちゃんです。今の時期には少しづつ眠りから醒めつつあるかもしれませんね。

夏へと

(出典 池田澄子句集)

吾を統ぶ鷹

谷川俊太郎がその一時期の経済的貧困を脱せれたのは彼の作品ではなく「マザーグース」の翻訳によってであった—という話を思い出して書こうと思ったらそれを書いてある本(自選谷川俊太郎詩集ー岩波文庫の解説部分)が見当たらない。普段の自分を責め,また神仏霊魂精霊生けとし生きるものに感謝と祈りを捧げたところ無事見つかったのでこの文章は書かれています。次に神について思いを馳せるのは腹痛の時でしょう。

実際に内容を読んでみたらマザーグースの翻訳の大ヒットで全くもって生活が安定したといった文脈だった,当たらずとも遠からず。

なんでこんな話を書いたかというとただの話の枕です。今日は寺山修司の話がしたいなと思って。寺山修司—彼もまた谷川俊太郎の友達で街に「詩」を見つけにいったりなんかしたりとかするほど仲が良いんですけど,谷川俊太郎同様マザーグースの翻訳をしてるんですよね,どっちが早いんだろうと思って年譜を見てみたら谷川俊太郎が1975年で寺山修司が78年だった(刊行されたのが)妄想が膨らみますね。膨らませろ。

ここに至って読者の方は僕が谷川俊太郎寺山修司の尋常ならざる関係を勝手に妄想し名誉毀損のレヴェルにまで到達することに冷や汗をかかれた方も居るかも知れません,多分居ない。そう,寺山修司の俳句の話をしなさい。しましょう。しませんか?

寺山修司ってのは簡単に説明しにくいですね。困った。日本にアングラという概念を持ち込んだ怪しいおじさんです。劇とか短歌とか詩とか俳句とか映画とかやってた。谷川俊太郎はみんなご存じそう,生きるとはミニスカートであるという事実を発見しノーベル賞をもらった日本の偉大なる詩人です。嘘です。半分合ってます。

「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」

「めつむりて/いてもあをすぶ/ごがつのたか」なんですよね575にすると。(この句は576だけど)破調ですね。最初一目で見たときから愛さざるを得ない句だったので,名句というものの存在を肯定するしかないな…と思った初めての句だったかも知れない。僕の心の中では「めつむりていても/あをすぶごがつのたか」と読んでます,なんの話だよ。俳句の話だよ。

お風呂に入ったら何について書こうと思ったのか忘れてしまった。思い出したこの句の青春性についてですね。この句は寺山修司が創りあげたかった,そして創りあげた若者の全てがつまってると思いませんか?そうは思わない?まあ聞いて聞いて。

目をつむっていても私ー僕を鷹が統べているという文言は僕たちに目を開けたときの世界を思い起こさせます。当然そこは五月の草原であるし鷹は空の王者として悠々と青空を飛んでいる訳ですね。

しかし目をつむっていること(或いははつむらせていること)には当然理由があります。それは目をつむっている=空想の世界だからですね。いきなり都市伝説についてかかれているサイトみたいな様相を呈してきましたけれど(ちなみにシャボン玉とんだとかの都市伝説の作者は寺山修司だったりする,嘘だったら怒ってね)寺山修司を取り巻いていた当時の俳壇の様子を考えれば,(驚くことに現実の光景を読むことが俳句においては偉いんだとされていたんです!)この予想は当たっていると言わざるを得ない。

空想の世界によって現実が規定される世界は存在し,そこの王たる鷹に統べられている少年もまたそこの王である。その思い上がりたるや!全く以て正しい!!世界で1番不幸なのは僕だし,世界を支配しているのは僕なんですね。あたりまえです。王様なんて裸だし大人なんて馬鹿ばっかりです。リボルバーをぶっ放せ。

この句はそんな馬鹿馬鹿しい・僕たちの・世界に対しての挑戦でしかありえず,大方の予想通りその挑戦は賢い大人によって粉砕されるわけです。

敗北は必然であるし,敗北を運命づけられた作品はなによりも刹那的で美しい。この句はそんな句でした。

(あれ最初に出てきた谷川俊太郎の話はどこ行ったんだよ)殴らないで殴らないで,あっそこ石投げないで,投げるのは銭だけで…。そうです言いたかったのは東京で二十億光年の孤独に青年がくしゃみしていた頃,青森では鷹に統べられた男の子が世界を(目覚める前に)夢見ていたと言うこと。まさしくこれは日本の詩の青春でもあったのかなってことを言いたかったんですよ。

けれども大丈夫。詩は人間と違って何回だって青春を経験するのですから。

(出典 花粉航海)

詩:竜巻とケンタウロス

人間とは何か、すまーとほんが答えてくれる、世の中だったらいいのにな。
夜の風が、ぼくの祈りを飛翔させた。
でもそれはうっかり竜巻となって、結局のところ村は壊滅した。夏なのに。

それはとても大きな災害で、ぼくたちはひたすらに聖なる何かを希望していちばん神秘的な方角に叫んだが。

晴れた後の空には、何の反映もなかった。

 

神さまがツイッタラーだったら、ぼくらは救われる。ぼくらは救われる。

この猥雑な掲示板に、装飾された悲しみを横たえる、若者はもう死なないのだ。

 

しかし森に住むケンタウロスは言う。

「そんな、悲しみに電飾とキラキラしたモフモフを巻き付けて、人に抱きしめてもらわなければならない生き物は、なべて野垂れ死ぬのがよいのだ」

 

しかし今の時代、そんなことを言うケンタウロスは斬首刑に処される。

なぜなら人間たちは、山頂とか別によくね?

この辺で、ピクニックして帰ればよくね?党を選挙で勝たせてしまったからなのだ。

 

ケンタウロスの最後の演説

「人間よ、思い出せ。お前らが魂の強度で生涯を推し量っていたことを。自らを肯定してはならない。他人によって肯定されてはならない。ただ、在るのだ。
そうして信じて良いのは、お前の魂が高潔であるという、訳の分からぬことだけだ。
この世のありとあらゆる訳の分かることは実質的に意味は無い。
訳の分からぬことの可能性を信じることでしか、人間を超越できないのだ。」

 

ケンタウロスは斬首されたあと、人間の方法で葬られた。

民衆は「かわいそーだねー」「ねー」とツイッターに書き込み、バズった。